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大信寺のご紹介
大信寺の経歴と三味せん寺の由来・江戸三味線の開祖(石村近江)
大信寺は峰島山峯樹院大信寺(後に宝島山と改める)と号し、開基は慶長十六年(1611)開山涼公上人が、江戸幕府より南八丁堀に寺領八百二十四坪を拝領し、一字を創建したことに始まります。
この時代は徳川家康が天下を統一し、江戸は急速に大発展していた時期で、家康公の招きに応じて上方より学者や僧侶、技芸に優れた職人たちが数多く下ってまいりました。石村近江も、おそらくこれらの中の一人であったと思われます。
江戸城の大拡張と市街地急増の余波を受け、寛永十二年(1635)、大信寺は上知されて現在の三田に移転しました。移築後も慌しい翌寛永十三年三月二日、江戸三味線製作の始祖と仰がれ名工の誉れ高い石村源左衛門が没し、大信寺に葬られました。
大信寺は明暦の大火(1657)と弘化の大火(1845)と二度の大火に文献を消失してしまい、近江翁との生前のかかわりは分かりませんが、石村家は代々京橋北一丁目に住居し八丁堀とは地理的に近接していることから、おそらく近江翁も浄土宗 檀家として開山上人とも交際があったのではないかと想像されます。
石村家はその後も代々三味線製作の名工を輩出し、石村近江の名を継いで家系は長く十一代まで続き、明治の世まで伝わりました。

【石村家先祖代々之墓・墓誌】
大信寺は歴代石村家の菩提寺として数多くの参詣者による香華絶えることなく、世上いつしか「三味せん寺」と呼ばれるようになりました。現在、墓地には正徳年間建立と思われる墓碑ならびに天保六年(1835)立石の先祖代々の墓があり、その周壁には明治までの代々の戒名が刻まれております。
さらに一隅には昭和四十五年(1970)、日本音楽会の泰斗田辺尚雄先生の起草による黒の大理石の石碑が造立されておりますが、三味線伝来の歴史と石村家の業績を簡潔によく表しておりますので、ここに全文を紹介しておきます。

江戸三味線開祖石村近江の代々

三味線は今日わが国楽器の代表として、その名広く世界に知られるに至っている。確実なる記録によれば、三弦は第十三世紀に中国の元に起こり、第十四世紀末福建省民によって琉球に伝わり、第十六世紀中頃貿易船によってわが堺に伝来した。
当時はわが琵琶法師によって苦辛研究の末、桃山時代の初に今日見る如き日本の三味線が完成した。


【碑文「江戸三味線の
開祖石村近江の代々」】
その後専門の制作師現はれ益々その芸術性を高めつつあったが、寛永年間に至り二代石村近江は京都より江戸に移り、その後代々石村近江の名を継ぎ代十一代に至る。特に二代より五代に至る間は稀世の名匠相継ぎ、古今無双の名器を多く世に出した。これによって三味線を用いる邦楽、浄瑠璃、地唄、長唄等驚くべき高度の発達を遂げることが出来た。実にわが近代邦楽の異常な発展は、これ等代々の石村近江の功績によると申されてよい。ここにその功績を頌してこの碑を建立するものである。
田辺尚雄誌
住職からのご挨拶
この度、東京港区三田の名刹大信寺(三味せん寺)は、時代の要望に基づき、多くの方々の求められる様式の納骨堂を造りました。
都市における新たな社会価値の創造として、人々の賞讃を得ることと存じます。 私もこれによって新しい法縁を伝うるものとして認識致し、皆様にご提案させて頂きます。
大信寺住職 第二十六世 慧誉孝之 謹書
大信寺の宝物
笙(雅楽器) 光摂殿天井絵
秋葉三尺坊威徳大権現 仏曼陀羅図
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